第1章 諸元
掩体壕の帆布を剥ぐと、屠龍の胴体が藍色に濡れていた。夜露である。帆布の裏にも細かな水滴が並び、剥ぐ手に冷たく移った。倉持は懐中電灯を点けず、空の白みを頼りに左の発動機に歩み寄った。灯火は敵に位置を教えるし、なにより彼は暗がりの中でこの機の形を指で覚えていた。ハ一〇二。三菱の空冷十四気筒。銘板の公称出力は千五十馬力とある。公称は公称であって、この機のそれではない。彼は点火栓の碍子を指の腹で拭い、煤の付き方を見た。指先に乾いた煤がざらりと残る。左三番、焼け色が濃い。混合比が濃いか、あるいは燃料が悪い。どちらでも結論は同じだった。出力は、公称から遠い。
徳田が背後で息を殺して立っていた。痩せた肩に防暑衣が余っている。袖口が手の甲まで垂れ、少年はそれを幾度も捲り上げては、また下りてくるのを気にしていた。
「脚注、油量」
「はい。左、規定まで八分。右、満たしてあります」
少年の声は夜明け前の空気に細く溶けた。倉持は頷きもせず、主脚の緩衝支柱に屈んで封鎖針の位置を読んだ。規定圧。よし。膝を鳴らして立ち、右の動翼を手で押し、蝶番の遊びを確かめる。鋼索の張りは昨日より半ミリ落ちている。指に伝わる戻りが、ほんのわずかに鈍い。湿気のせいだ。あるいは機体そのものが古びていく速度のせいだ。人が根を掘るより速く、鉄は疲れていく。
東の稜線が薄く灰を刷いた。滑走路は山と山の間に斜めに切られ、全長は九百五十メートルしかない。両側は杉の斜面で、踏み外せば谷である。満載の屠龍が浮くには短い。倉持は浮かす計算を毎朝やり直した。気温、風向、湿度、そして機の疲れ。数字は日ごとにわずかずつ動き、彼はそれを追い続けた。それが彼の戦だった。銃を持たぬ彼の、ただ一つの戦だった。
彼は整備手帳の余白に鉛筆で数字を並べた。自重三千八百、全備五千五百。ハ一〇二、二基。高度が上がれば空気が薄くなり、翼は掴む力を失い、過給機の一段では埋めきれない。過給の効く高度を越えれば出力は坂を転げるように落ちる。それは緩やかな下りではなく、崖だった。公称の実用上昇限度は一万。だがそれは新品の、良い燃料を入れた、軽くした機の数字だ。この機ではない。この機は、幾度も上がり、幾度も下り、そのたびに何かを少しずつ失ってきた。
倉持は眉一つ動かさず、減じていった。磨耗した圧縮比で一割、悪い燃料でさらに一割、上向き砲と弾の重みでなお幾らか。鉛筆の先が紙を削る音だけが掩体に残った。しゃりしゃりと、まるで砥石をあてるような音だった。出てきた数字は九千二百。条件のよい夜で、そこまで。並の夜なら八千八百がせいぜいだった。彼はその数字を丸で囲まず、棒で消しもしなかった。飾りも、悔いも、そこには要らない。ただ事実として手帳に置いた。事実は、置かれるだけで足りる。
夜が退くにつれ、機首の三十七粍が鈍く形をあらわした。ホ二〇三。胴体上面には斜めに二十粍が二門。上向き砲という。敵の腹の下へ潜り込み、下から刺す。理屈は美しかった。刺せる高度まで昇れれば、の話だった。
荷車の軋む音が谷を上ってきた。松根油である。
村の老人と徳田より小さい子供が、一斗缶を縄で縛って運んできた。縄が肩に食い込み、老人の首の筋が朝の光に浮いている。倉持は缶の一つを開け、匂いを嗅いだ。松脂と土の匂い。精製の甘い、粘る匂いが鼻の奥に残る。彼は缶の口に指を差し入れ、引き抜いた指を朝の光に透かした。琥珀色の油が指を伝い、糸を引いて缶へ戻る。松根油七、航空九一揮発油三。規定の混合だが、規定どおりに混ざっている保証はどこにもない。搾る人の手も、量る道具も、もう十分ではない。
「沈殿があります」と徳田が言った。缶の底に薄く濁りが溜まっている。
「漉せ。布、三枚重ね。二度」
「二度、承知しました」
松根油は松の根を乾留して搾る。国じゅうの山で、女と老人と子供が根を掘っていた。鍬を入れ、根を割り、釜で焼いて、雫のような油を集める。一機を一度上げる油を搾るために、どれだけの松を殺したか、倉持は計算しなかった。計算しても機は昇らない。昇らないものは数に入れない。それが彼の流儀だった。この油は着火が鈍く、燃え方に癖があり、発動機の弁に漆のような膜を残す。残せば出力はまた減る。減れば、あの数字がさらに下がる。山を裸にして搾った油が、機を地に縛る。倉持はその皮肉を思ったが、思っただけで手帳には書かなかった。
彼は手帳の九千二百の横に、小さく松と書いた。それは注釈であり、言い訳ではなかった。
浅間が掩体の入口に立っていた。中尉は飛行服の襟を開けたまま、発動機ではなく倉持の手帳を見ていた。整備の手つきを見る士官は多い。だが数字を見る者は少ない。この隊で、倉持の数字をまともに聞く男は一人しかいない。
「今夜は」と浅間が訊いた。
倉持は手帳を閉じずに差し出さなかった。数字は紙の上より、口で言ったほうが早く冷える。代わりに口で言った。
「条件がよくて九千二百。風と気温次第で、八千八」
浅間は黙って稜線の向こうの空を見た。まだ星の残る、薄墨の空だった。昨夜、B二九の編隊は高度九千七百を西へ流れていった。哨所の報告に誤差があるとしても、五百や六百の誤差では、あの銀色の腹はこの機の射界に入らない。倉持の数字と敵の数字の間には、いつも数百メートルの透き間があった。手の届かぬ、しかし見えている透き間。その透き間は鉛筆でも油でも埋まらない。
「潜り込む余地は」
「ありません。上から来られれば、こちらは下で待つだけです」
言い切ってから、倉持は少し間を置いた。慰めを継ぐ言葉を探し、見つからず、やめた。
浅間は頷いた。否定も気負いもしなかった。ただ空を見続けていた。二十一の目だった。その目に映る空を、倉持は覗こうとはしなかった。
倉持は発動機に向き直り、点火栓を一本ずつ外しはじめた。焼けた左三番を抜き、予備と並べて煤を比べる。焼け色の濃淡を、指の腹と朝の光で読む。この一本を替えれば、あるいは始動が半呼吸早くなる。半呼吸が九千二百を九千三百にすることはない。それは彼にもわかっていた。それでも彼は替えた。替えられるものだけを、替えた。替えられぬものの前で、人にできるのはそれだけだった。
徳田は布を三枚重ね、缶の上で松根油を漉しはじめた。濁った油が布を通り、澄んだ色になって下の缶へ落ちていく。落ちる筋は細く、途切れず、朝の光を一本の糸に束ねていた。少年はその落ちる筋を、息を詰めて見ていた。屠龍の影が、朝の光の中でゆっくりと藍から鋼の色へ変わった。露が乾き、機は昼の重さを取り戻していく。
谷の奥で、次の荷車が軋んだ。
第2章 松の根
谷を登ってくる荷車は、いつも同じ順で軋んだ。前輪、後輪、それから樽の口金。徳田はその音を数えるようになっていた。前輪が石を噛むと甲高く鳴り、後輪が続いて低く応え、最後に口金が金属質の音を立てる。三つ聞こえてから、少年は縄を取りに立つ。松根油の樽は一つ四斗、満載で六十貫近い。少年の体重の倍を越える。荷車から降ろすときは、二人がかりで縄を回し、板を渡して転がした。徳田は縄の端を腰に巻き、踵で土を噛んで支えた。膝を落とし、上体を後ろに預け、樽の重みを骨で受けるようにする。踵が滑れば樽は少年を谷側へ引く。滑走路の両側は崖だった。
村の老人が手綱を引き、少年が後押しをし、樽が土間に着く。着けば老人はそのまま次の谷へ戻っていく。会釈も、労いの一言もない。手綱を握り直し、背を丸め、来た道を下っていくだけだった。松の根は山から掘り出され、窯で蒸され、油になってここへ来る。一本の松の根から取れる油は僅かで、一機を一夜飛ばすには村一つ分の山が痩せた。倉持はその換算をしたことがあった。松根油七、航空九一揮発油三。この配合で、村がどれだけ削られるか。数字にすれば残酷なほど単純で、単純だから彼はそれ以上考えなかった。考えても油は増えない。増えないものを数えるのは、時間の無駄だった。
徳田は樽を運び終えると、布を三枚重ねて漉しにかかった。倉持が二度漉しを命じてある。一度目で粗い滓が布に残り、二度目で細かい濁りが澄む。少年の手は器用だった。布の張りを均し、油の落ちる筋を細く保つ。急がず、こぼさず、無駄な力を入れない。油が布を透るあいだ、少年は缶の縁に指を添えて筋の太さだけを見ていた。倉持はその手つきだけは信じていた。人は信じないが、手順を守る手は別だった。手は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも口だった。
「曹長」と浅間が来た。飛行服の襟を開け、寝ていない目をしていた。頬に寝台の皺の跡が残っていた。「今夜の分、間に合いますか」
「漉しが終われば」倉持は手を止めずに答えた。「量は足ります。質は、いつもの通りです」
いつもの通り、が何を意味するかは、この士官には通じた。倉持は右の発動機に浅間を呼び、覆いを開けた。金具が渋く鳴った。気化器の下、燃料弁の座に指を這わせる。指の腹に薄い膜が触れた。褐色の、粘つく被膜。松根油の残す滓だった。二度漉しても、微細なものは弁まで届く。届けば膜になり、膜になれば弁の閉まりが甘くなる。
「これです」倉持は指を浅間の前に出した。膜が指紋の谷に溜まっていた。「弁の座に残る。混合比が狂い、出力が落ちる。落ちる幅は、その日の油次第で読めません」
「読めない、というのは」
「昨日と今日で、同じ全開でも馬力が違う、ということです。計器は同じ数字を指しても、実際の推力は違う。この膜の厚みが毎日違うからです」倉持は指を少し傾けた。膜が光を鈍く跳ね返した。「厚みは、量れません。量れないものは、勘定に入れられません」
倉持は布切れで膜を拭い、光にかざした。褐色が繊維に伸びた。この一機に発動機は二基、ハ一〇二、空冷十四気筒。設計出力は一基千五十馬力。だが設計は九一揮発油を前提にしていた。松根油混合では、点火の遅れ、燃焼の不完全、弁座の被膜、そのどれもが馬力を削る。倉持の見積もりでは、良い日で一割、悪い日で二割。二割落ちれば、上昇限度は八千八からさらに下がる。下がった限度の上に、届かない空が残る。
「点火栓も焼けが早い」倉持は続けた。「昨夜、左三番を替えました。煤の付きが尋常でない。松根油は燃え残りが多い。燃え残りは煤になり、煤は点火栓に溜まり、失火を招く。今の頻度なら、点火栓の寿命は規定の三分の一です」
浅間は膜の付いた発動機を見ていた。指先が覆いの縁を無意識になぞっていた。「では、部品の消耗も」
「加速します。弁、点火栓、それから活塞環。被膜と煤は少しずつ機関を殺す。飛ばすたびに、機は昨日より少し老いる。老いた分は、数字で戻せません」
言葉に責める調子はなかった。倉持は事実を並べただけだった。並べれば、結論は一つだった。この機は上がるほどに、上がる力を失っていく。敵は九千七百を飛ぶ。こちらは八千八から、日ごとに下がる。透き間は開くばかりで、埋まらない。埋めるための油が、その透き間を広げていた。
浅間は覆いの奥を覗き込んだまま、しばらく黙っていた。発動機のどこか、暗がりに答えでもあるように見つめていた。それから言った。「それでも、上げるんですね」
「上げます」倉持は覆いを閉じた。掌で縁を押さえ、留め金の噛みを確かめる。「上げられる高さまでは、上げます。私の仕事は、上がる高さを一メートルでも稼ぐことです。届くかどうかは、私の管轄ではありません」
管轄ではない、と言い切ったとき、浅間が薄く笑ったのが横目に見えた。疲れた、けれど咎めのない笑みだった。倉持は笑い返さなかった。笑いは数字にならない。
「祈って上がる高さはありません」倉持は工具を布に戻しながら言った。一本ずつ、置いた場所を目で確かめて戻す。「点火栓を替えれば始動が半呼吸早くなる。弁の膜を拭えば馬力が僅か戻る。鋼索の張りを直せば動翼が半瞬速く効く。全部足しても、九千二百が九千三百になるかどうかです。ですが、その足し算だけが、私にできることです。祈りは一メートルも稼がない」
浅間は頷いた。否定しなかった。二十一の男は、倉持の算術を最後まで聞く唯一の士官だった。他の若い搭乗員は数字を聞くと目を逸らした。逸らして、精神を語った。声を高くし、天を指し、負けぬと言った。倉持は精神を整備できない。整備できるのは、弁と点火栓と鋼索と、漉した油の質だけだった。
徳田が漉し終えた缶を運んできた。澄んだ油が朝の光を通していた。少年は缶を土間に据え、両手で位置を直してから、次の荷車の音を待つように谷を見た。谷の奥から、また前輪の軋みが聞こえはじめていた。前輪、後輪、口金。少年は縄を取りに立った。倉持はその背を見た。痩せて、背が低く、樽の倍に満たない。それでも縄を腰に巻く手つきだけは、大人のそれと変わらなかった。
「徳田」倉持は呼んだ。「漉しは三枚のままだ。四枚にするな。落ちが遅くなって、夜に間に合わん」
「はい」少年は振り向いて復唱した。「三枚のまま。四枚にしません」
倉持は発動機に向き直った。今夜の混合燃料の質は、この谷を登ってくる油で決まる。油の質は、村がどれだけ山を削ったかで決まる。削られた山は戻らず、削った油は膜を残し、膜は機関を老いさせる。その連なりの端に、八千八の空があった。倉持は左の発動機の覆いを開けた。まだ点検すべき弁が、二十八あった。指を油に湿らせ、最初の一つに手をかけた。
第3章 邀撃
警報が鳴ったのは二十二時四十分だった。谷の下、監視哨の電話が三度切れて三度繋がり、そのたびに数が繰り上がった。北九州の防空管区から入った符牒を、当直の下士官が声を落として復唱した。編隊、大。針路、北。高度、未確認。未確認、と言い終える下士官の喉が、乾いた音を立てた。倉持は左手の懐中時計を取り出し、蓋の銀を親指の腹で拭ってから、また閉じた。八九式の航空時計は狂わない。歯車は寒さにも湿りにも従順で、決めた速さで刻みつづける。狂うのは油と発動機と、人だった。とりわけ人が、いちばん先に狂った。
灯火は消したままだった。滑走路九百五十メートルの両端に、覆いをかけた誘導灯が伏せてある。空から見れば、そこはただの闇だ。倉持は暗がりを歩数で測って歩いた。掩体まで六十四歩、いつもと同じだった。歩幅が乱れれば、それだけ機の場所を見失う。だから彼は昼のうちに歩数を体へ刻み込んでいた。屠龍は樹下の掩体で、翼を闇に沈めていた。上向きに傾けた二十ミリ二門が、機体の背から夜へ向いている。斜め銃。相手の腹の下へ潜り込み、下から刺す。理屈は正しい。図面の上では、これ以上ないほど正しかった。ただし相手の腹まで届けばの話だった。
「発動機、暖機」倉持は言った。声は張らなかった。夜の谷では、低い声のほうがよく通る。徳田が布を外し、口金を確かめて復唱した。「発動機暖機。口金、確認しました」少年の指が、暗がりでも迷わず金具をたどっていく。幾晩も繰り返して、手が順序を覚えていた。
始動車の音がした。慣性始動機の唸りがゆっくりと上がり、右の発動機が咳をした。一度、二度。混合気が薄い。松根油七割は寒気に弱く、気化が遅れる。倉持はそれを知っていた。知っていて、なお三呼吸を数えた。焦って手順を早めれば、点火の機を逃す。三呼吸で点火しなければ、そのときに手順を切り替える。そう決めていた。右は点火した。左が回らなかった。
「左、かからん」徳田の声が細くなった。夜の中で、少年の肩がわずかに強張るのが分かった。
倉持は覆いの隙間へ手を入れた。指の腹で気化器の温度を測る。冷えている。谷の底は昼でも日が浅く、両側の斜面が空を狭めている。夜は露が降りる。弁座の膜が冷えて、油の落ちが鈍っていた。倉持は予熱の手筒を寄せさせ、吸気管の付け根をゆっくり炙った。「そう慌てるな」と、機にというより自分に言い聞かせた。祈りは一メートルも稼がない。だが熱は稼ぐ。金属は正直だった。人のように嘘をつかず、炙れば緩み、冷えれば締まる。炙って四十秒、始動機をもう一度回させた。左が唸り、火が入り、二基の排気が揃って青い炎を吐いた。松根油の炎は赤みが濁る。良い揮発油の澄んだ青とは違う。倉持はその色で燃え方を読み、混合の当たりを確かめた。悪くない。今夜の油は、村がよく削った油だった。松の根を掘り、割り、煮て絞る。その手間の分だけ、炎が素直だった。
浅間が搭乗した。飛行帽の顎紐を締める手が、いつもより速かった。指先が革紐の先を二度取り落とし、三度目でようやく通した。倉持は昇降口の縁に手をかけ、顔を寄せた。冷えた金属が掌に吸いついた。
「中尉。八千八百までは請け合います。それ以上は保証しません。上がって、水平を出したら、無理に頭を上げ続けないでください。失速に入れば戻せない高度です。空気が薄くて、舵が利くより先に翼が沈みます」
「聞いた」浅間は前を向いたまま言った。計器の並びから目を離さなかった。「八千八百。頭を上げ続けない。復唱はしない、時間が惜しい」その声には、恐れも気負いもなかった。ただ数字だけが、乾いて据わっていた。
倉持は縁から手を離した。それでよかった。復唱より離陸のほうが早いなら、そのほうが正しい。言葉を惜しむ男は、たいてい油も惜しまない。
輪止めを外した。木の楔が地を擦る音が、二度した。屠龍は滑走路の端へ回り、闇の中で機首を北に据えた。誘導灯の覆いが一瞬だけ引かれ、二列の細い光が地を這った。すぐに消える。長く点ければ、それが標的になる。発動機が全開に上がった。谷の壁に爆音が跳ね返り、地面が足の裏で震えた。排気の炎が長く伸び、機体が動き出した。倉持は走らなかった。走っても機は速くならない。彼は数えた。滑走、二十三、二十四。九百五十メートルのうち、いつも七百を過ぎたあたりで尾が浮く。今夜もそうだった。二十九を数えたところで、車輪の音が地から消えた。屠龍は谷の口へ浮き、樹冠すれすれを北へ抜けた。翼端が梢を撫でたように見えたのは、たぶん闇のいたずらだった。爆音が斜めに遠ざかり、やがて夜のほかの音に混じり、聞き分けられなくなった。
灯が伏せられ、滑走路はまた消えた。倉持は掩体の脇に立ち、時計の蓋を開けた。二十三時六分。ここから先、彼の戦は音と時間だけになった。手は油に汚れたまま、もう触れる金属もない。屠龍の姿は見えない。見えるのは、遠い山の端に立ちはじめた探照灯の光芒だった。三本、四本、六本。北の空を斜めに掃き、交わり、また離れた。光の根は海側にあった。編隊はまだ高い。光の交点が動く速さで、倉持はおおよその高度を割った。九千を超えている。屠龍の届かぬ側だった。彼はそれを口に出さなかった。
爆音が北の空に満ちてきた。B29の発動機は四基、うねるような重低音で、味方の双発とは拍が違う。空気そのものが押されて、胸の底に響く。倉持はその拍を聞き分けた。編隊は大きい。二十、いや、それ以上。谷の空をまたぐのに、爆音の頭と尾で四十秒近くかかった。四十秒。倉持は数えながら、頭の中に空を描いた。高度九千二百、速度は西進のときより落ちている。北上、投弾はまだ。標的は八幡か、その先の工廠か。地図の上を、見えない編隊が定規のようにまっすぐ滑っていく。
探照灯の一本が、ふいに小さな影を捉えた。捉えて、外した。倉持は息を止めた。あの影の速さ、あの高さ。屠龍ではない。もっと上、もっと大きい。屠龍は光の下、影の下にいるはずだった。見えないところで、機首を上げ続けているはずだった。八千八百。そこから先は保証しない。倉持は自分の言葉を思い出し、時計を見た。二十三時十一分。上昇に要する時間から逆算すれば、浅間は今ごろ限界の高度へ差しかかっている。舵は重く、翼は沈みかけ、目の前の敵は、なお手の届かぬ天にいる。
二十ミリが鳴る音は、まだ聞こえなかった。爆音の重低音だけが、頭の上を北へ流れていった。徳田が隣に立ち、口を開かずに空を見ていた。少年の頬に、探照灯の遠い光が薄く差しては消えた。倉持は少年に何も言わなかった。言うべき数字が、今はなかった。ここから先は、数えても届かない。探照灯が交わり、離れ、また北の一点へ集まりはじめた。その一点が、屠龍のいる空か、届かぬ空か。倉持には、まだ分からなかった。時計の秒針だけが、油の匂いのする闇で、動きつづけていた。
第4章 帰投せず
夜が白む前に、風が変わった。谷の底から冷えた空気が這い上がり、滑走路の端の吹き流しがゆっくりと北を向いた。倉持は掩体壕の縁で時計を見た。四時四十分。文字盤の針は、暗がりの中で薄く光を溜めていた。松根油の残量、格納の一番機は満、二番機は空。二番機は帰っていなかった。
浅間の機である。離陸は二十三時六分。燃料搭載量から算した滞空限界は、上昇分を差し引いて三時間十分。逆算すれば二時十六分には脚が接地しているはずだった。だが誘導路には何もなく、燃料の匂いも、冷えた発動機の余熱もなかった。倉持は誘導灯を消させ、耳を空へ向けた。谷の口に響くのは風の音だけで、双発の拍はどこにもなかった。何度か、風の擦れを発動機の音と聞き違えた。そのたびに息を止め、そして風だと知った。空は、返事をしなかった。
五時を過ぎて、電話が鳴った。受けたのは当直の士官だった。倉持は復唱を聞いた。海上、着水の報なし。付近の監視哨、通過機の目視なし。落下傘の確認なし。士官が受話器を置いた。金具の当たる硬い音が、掩体の壁に短く返った。倉持は何も問わなかった。問えば答えが要る。答えは、数えられる形では返ってこない。
「帰投せず、で記録します」
士官の声は乾いていた。倉持は頷いた。帰投せず。四文字だった。機体一、搭乗員一。整備の帳面には、機番と発動機番号と、最後の点検の判が並んでいる。判は倉持のものだった。彼はそれを見て、しばらく指を止めた。朱肉の縁が少し滲んでいた。昨日の自分の指がそこにある。それから帳面を閉じた。閉じる音は、思ったより小さかった。
夜が明けきると、倉持は一番機を開けた。
浅間の機は戻らない。だが原因は、戻った側の鉄で読める。彼はそう考えた。カウリングの締結ボルトを外し、左発動機の点火栓を全数抜いた。十四本。一本ずつ、指先で温度を確かめるように抜いた。電極を親指の腹で拭い、光にかざす。碍子の裾に、黒褐色の被膜が薄く、しかし一様に張っていた。指で擦っても落ちない。爪を立てると、脂の焦げた層が糸を引いた。松根油の残りである。
倉持は次に排気弁を見た。弁座の当たり面に、同じ黒い環が焼き付いていた。弁が閉じきる前の一瞬、そこに未燃の油が回り、圧の頭を削っていく。彼は指の腹で環をなぞりながら、頭の中で機械の理屈を追った。オクタン価の低い代用油は、高空の希薄な空気の中で火の回りが遅れ、燃え残りが弁座と点火栓に積もり、積もった膜がまた火を鈍らせる。悪循環である。今朝の膜の厚さから逆算すれば、圧縮の頭は規定の九割を割っていた。九割。過給の限界高度で、その一割が翼を支える最後の余力だった。指のなぞりを止めても、環の縁は指の腹に黒く残った。
徳田が工具箱を提げて立っていた。少年は点火栓の並んだ盤を見て、それから倉持の手元を見た。何か言いたげに口を開き、そして閉じた。倉持は電極の一本を少年の掌に載せた。
「見ろ。これが八千八百の正体だ」
徳田は黒い電極を握った。握って、何も言わなかった。指のあいだで、電極をゆっくりと回した。少年の指は油で汚れていて、爪のあいだに松根油の匂いが染みていた。運びつづけた油だった。缶を担ぎ、坂を上り、また下った、その手の匂いだった。倉持はそれ以上言わなかった。数字は少年の掌の上にある。あとは少年が、いつかそれを勘定に組み込む。
倉持は圧縮試験器を繋いだ。手回しで各筒の圧を測り、帳面に落としていく。ハンドルの重さが、筒ごとに違って手に伝わった。一番筒、規定七に対して六・三。三番筒、六・一。五番筒に至っては五・八まで落ちていた。良質の航空九一揮発油ならば、この機はまだ九千二百まで登れた。だが庫にあるのは松根と、それを増嵩する僅かな石油だけである。倉持は圧の数字を横に並べ、その脇に上昇限度の推算を書き入れた。今夜、八千六百。明晩、たぶん八千五百。線は右下がりに落ちていく。敵の高度は九千を割らない。差は開くばかりで、埋める手は帳面のどこにもなかった。鉛筆の先が、紙の上で一度だけ止まった。
彼は結論を一行に約めた。原因、燃料の質による出力低下。整備の瑕疵にあらず。機構の摩耗にあらず。書きながら、倉持は自分の弁明を軽蔑した。誰に向けた一行でもない。弁座の膜が、点火栓の環が、圧縮の数字が、すでに同じことを言っている。人の判より、鉄のほうが正直だった。鉄は、言い訳を知らなかった。
昼前に、戦果報告の用紙が回ってきた。
倉持は所定の欄を上から読んだ。出撃機数、一。交戦、あり。標的、B29編隊、推定四十機以上。そして戦果の欄が来た。撃墜、空。撃破、空。倉持は鉛筆の尻でその空欄を軽く押さえた。二十ミリの発射音は、ついに谷に届かなかった。斜め上向きの二門は、敵の腹の下まで機を運べなかったということだった。刺す刃はあった。刃を届かせる高さが、なかった。刃は、鞘に入ったまま海へ落ちたのかもしれなかった。
彼は空欄に斜線を引かなかった。斜線は、無を確定させる。確定させるだけの根拠が、まだ揃っていない。浅間の機が本当に射点へ達したのか、達して外したのか、達する前に翼が沈んだのか。帳面の圧の数字は原因を語ったが、最後の一分間だけは語らなかった。その一分は、戻らぬ機の中にしかない。倉持は鉛筆を置き、空欄をそのままにした。空欄は、まだ問いの形をしていた。
倉持は用紙を伏せ、格納へ戻った。一番機の左発動機は、まだ開いたままだった。点火栓の穴が十四、朝の光を吸って黒く並んでいる。彼は新しい栓を一本ずつ差し、規定の締付で締めていった。締めながら、今夜の予熱の手順を頭の中で組み直した。始動難は変わらない。膜は落ちない。だが飛ばすなら、少しでも火の回りを早める。予熱を長く、混合をわずかに濃く。彼にできるのは、その一寸だけだった。一寸を積んでも、線は右下がりのままだと知っていた。
徳田がまた油の缶を運んできた。少年は缶を置き、掩体の壁に背をつけて、屠龍の翼をじっと見上げた。翼は昨夜より低い空しか約束していない。倉持はそれを口に出さなかった。少年もまた、何も訊かなかった。表を閉じ、時計を見た。十一時二分。次の出撃までに、あと何時間ある。彼は数えはじめた。数えられるものだけを、また数えはじめた。
第5章 改造
命令は電話で来た。受話器の向こうの声は短く、復唱を求めた。倉持は復唱した。屠龍二機、迎撃任務を解く。武装及び防弾を撤去し、機体を軽量化のうえ、体当たり戦法に供せよ。以上。倉持はもう一度、以上、と言った。声の主は、それきり何も付け加えなかった。労いも、猶予の日数も、代わりの案もなかった。受話器を置く音が、格納の油の匂いの中に落ちた。落ちて、消えた。倉持はしばらく受話器の上に手を置いていた。冷たい黒い樹脂の丸みが、掌の下で何も語らなかった。
彼は帳面を開き、命令の要旨を日付の下に写した。八月十三日。体当たり用改造下令。字は乾いていた。感情を挟む余地は、字画の間になかった。彼は写した文字を一度読み返し、鉛筆の腹で日付の脇を軽く押さえた。算術は単純だった。上昇限度八千五百、敵九千七百。差は千二百。この差は、機を軽くしても埋まらない。装備を全部下ろして得られる上昇は、せいぜい二百か三百だと彼は見積もった。残る九百を、機は速度と角度で買うしかない。買った先に待つのは、敵機の胴だった。刃を届かせる高さがないなら、機そのものを刃にする。それが上の出した引き算だった。倉持はその引き算の底が抜けていることを知っていた。分母に人間が一人、置かれている。分子でも余りでもなく、割り切れるべき数として、そこに置かれていた。
作業を割り振った。まず二十ミリ二門。斜め上向きに据えられた機関砲を、彼は工具で座から外した。締め込まれた螺子は固く、一つずつ、油の膜を裂くようにして緩んだ。砲身は重い。一門で数十貫はある。徳田ともう一人が担ぎ、掛け声もなく、足を踏みしめて掩体の隅へ運んだ。弾倉、給弾機構、照準器。順に外れていった。外れるたびに、機の中の暗がりが少しずつ広くなった。次に防弾。操縦席背後の装甲板、燃料槽の防弾ゴム。板は厚さ十三ミリの鋼で、外すと座席の後ろにぽっかりと空が生まれた。倉持はその空を見た。しばらく見た。被弾すれば、そこを弾が抜ける。抜けた先に、背中がある。彼は板をどけ、重量を帳面に引いた。引いた数字の下に、また一つ数字が並んだ。無線機の一部も下ろした。帰投を前提としない機に、誘導の受信は要らないという理屈だった。要らない、という言葉が、機の中から少しずつ物を減らしていった。減らすことが、この機を仕上げることだった。
機は軽くなった。手で押すと、以前より容易に尾が持ち上がる気がした。だがそれは錯覚に近い。松根油の膜は落ちない。圧縮比は五・八のままだった。軽くなった機体を、力の出ない発動機が引き上げる。倉持は始動の予熱時間を計算し直した。軽量化で上昇率はいくらか上がる。上がった率で、千二百の差の何割まで詰められるか。紙の上で線を引いた。定規を当て、傾きを検め、もう一本引いた。線は、敵の航路の高さに届く前で切れた。届かない。二本とも、同じところで切れていた。彼は鉛筆を止め、それでも作業を止めなかった。届かせる算段がないことと、命令を実行することは、別の事柄だった。別の事柄として、彼は手を動かし続けた。
徳田は防弾ゴムの切れ端を運んでいた。少年は途中で手を止め、外された二十ミリと、座席の後ろの空とを、順に見た。しばらく動かなかった。切れ端を抱えたまま、視線だけが二つの空白を往復した。それから小さな声で訊いた。この機は、帰ってこないんですか。倉持は締めていた螺子から手を離さなかった。手のなかで工具が一度、金属を噛んだ。帰る算段のある機は、こうは軽くしない、とだけ答えた。それ以上の言葉を、彼は継がなかった。少年は缶を置き、屠龍の翼を見上げた。翼はもう、低い空すら約束していなかった。約束の代わりに、一度きりの角度だけが、機体の中に組み込まれていた。徳田は口を結び、切れ端を隅へ運んだ。運ぶ足が、いつもより遅かった。踏み出すたび、砂利が小さく鳴った。倉持はそれを見て、何も言わなかった。言うべき数字を、彼は持っていなかった。慰めは数字ではなかったし、彼が持っているのは数字だけだった。
夕刻、掩体に人影が立った。倉持は油の手を止めて振り返った。浅間だった。軍衣は汚れ、右の頬に擦過の痕があった。乾いた血が、細い線になって顎の際まで続いていた。三日前、燃料限界を超えて戻らなかった機の操縦者が、そこに立っていた。生きて、地を踏んで、立っていた。倉持は最初の一秒、帳面の空欄を思い出した。斜線を引かなかった、あの空欄を。引こうとして、引けなかった空欄を。浅間は敬礼もせず、軽くなった機体を見た。武装のない座、装甲のない背、減らされた無線。改造の意味は、一目で通じた。学徒あがりの操縦者は、算術を読む男だった。読んで、顔色を変えない男だった。
搭乗員を、と浅間は言った。この機の。倉持は答えなかった。工具の柄を握ったまま、相手の目を見た。浅間は続けた。届かない高度なら、届かせ方は一つだと、あなたが前に言った。刃を届かせる高さがないなら、と。倉持は自分がそれを口にしたかどうか、思い出せなかった。いつ、どの晩に言ったのか、記憶は油で滲んでいた。だが少年の前で、機そのものを刃にする、と考えたことは確かだった。考えは、口に出さずとも、この軽い機体が代わりに語っていた。座席の後ろの空が、無線の抜けた穴が、外された砲座が、みな同じことを語っていた。
倉持は工具を置いた。金属が架台に触れ、短い音を立てた。中尉、と彼は言った。この機の上昇限度は、明夜で八千四百を切ります。敵は九千七百。差は千三百。軽量化で詰められるのは三百が上限です。残りは、届きません。数字を、彼は正確に並べた。一つ言うごとに、間を置いた。並べ終えて、待った。浅間はうなずいた。知っている、と言った。頭では、ずっと前から。声に、抗いはなかった。倉持は帳面を開き、搭乗員の欄に指を置いた。まだ、何も書かなかった。書けば、また一つ、無を確定させる形になる。彼は指を置いたまま、外は暮れていくのを見た。掩体の口から、藍の色が滲んで入ってきた。予熱まで、あと何時間ある。彼は数えはじめた。数えられるものだけを、また数えはじめた。
第6章 最後の整備
掩体の中は、松脂と焼けた油の匂いで満ちていた。倉持は作業灯を一つだけ点けた。二〇燭光。碍子の割れた予備灯は使わなかった。光の届く範囲を、彼は手の届く範囲に合わせた。それより先は闇でよかった。見えぬものは、整備できぬものだ。左発動機のカウリングを外し、点火栓を十四本、順に抜いた。電極はどれも煤で黒い。松根油の混合が三割を超えてから、燃焼は汚れる一方だった。彼は真鍮のブラシで一本ずつ磨き、白い火花の跡が戻るまで擦った。それから隙間を〇・四ミリに詰め直した。規定は〇・三五。彼は五毛だけ広く取った。低い圧縮では、その方が火が飛ぶ。手順書にはない。工廠の二十年が、彼にそう言わせた。手順書は、二十年を知らない。
徳田が松根油の缶を運んできた。四斗缶を二つ、痩せた腕でぶら下げて。缶の縁が膝に当たるたび、少年の足は少しよろけた。少年は掩体の口で止まり、それ以上入らなかった。倉持は振り向かずに言った。濾せ。少年は無言で漏斗に晒布を張り、缶の中身を移した。琥珀色の液が、細く落ちた。木の匂いが立った。ガソリンではない匂いだった。松の、根の、生木の匂いだった。倉持はその匂いで、明夜の上昇限度を数えた。八千四百。切るかもしれない。切れば、差はさらに開く。彼は数えるのをやめ、次の点火栓に移った。数えたところで、油の質は変わらない。
気化器を降ろした。主噴口の径を測り、〇・〇二ミリだけ大きい予備と入れ替えた。松根油は気化が悪い。濃く送らねば、高空で火が細る。濃くすれば、地上で被る。彼はその境目を、経験で選んだ。祈りではなかった。境目とは数字であって、願いではない。彼はそう思い、指先で噴口の縁を確かめた。滑らかだった。傷はない。爪の先で一度、内側をなぞった。ざらつきもない。組み直し、六本の螺子を規定の力で締めた。締めすぎれば座金が歪む。緩ければ振動で抜ける。指先が、その力の頂きを憶えていた。ここで止めろ、と骨が言う。彼はそこで止めた。
浅間が来たのは、夜半を過ぎた頃だった。飛行服のまま、掩体の縁に立った。頬の擦過傷は、瘡蓋になっていた。倉持は手を止めなかった。整備の途中で止めることを、彼は好まなかった。手を止めれば、指が力を忘れる。
上がりますか、と倉持は訊いた。工具から目を離さずに。浅間は、上がる、と答えた。何時に、と倉持は訊いた。〇四三〇、と浅間は言った。月の入りの後だ。倉持はうなずいた。それから言った。全開高度で、混合を絞らないでください。絞れば失火します。この気化器は、濃いままで上がるように組みました。地上では被ります。かまいません。上がってしまえば、被りは消えます。浅間は、わかった、と言った。短かった。復唱はしなかった。倉持もそれ以上言わなかった。念を押せば、押した分だけ言葉が軽くなる。二人の間に、余分な言葉はなかった。
高度は、と浅間が訊いた。今夜の見込みは。倉持は答えた。八千四百。よくて五百。敵は九千七百。差は千三百から千二百。詰められません。並べ終えて、彼は待った。前と同じように。数字が相手に届くのを、彼はいつも待った。浅間はうなずき、そして言った。差の分は、こちらが上げる。倉持は工具を握った手を、一度だけ強く握った。上げる、とは、どういう意味か。彼は訊かなかった。訊けば、答えが数字にならないことを、彼は知っていた。数字にならないものを、彼は信じない。二十年、信じてこなかった。だが今夜だけは、その一つを、口の中に置いたまま噛まなかった。噛めば、味がしないことを、恐れたのかもしれなかった。
浅間が去った後、徳田が缶の陰に立っていた。晒布を握ったまま、動かなかった。倉持は少年を見た。少年の目は、機体を見上げていた。武装を外され、装甲を剥がされ、無線の穴の開いた機を。少年には、それが大きな龍のように見えているらしかった。倉持にとっては、重量表だった。撤去した二〇ミリ斜め銃、二挺で八十二キロ。装甲板、百十キロ。防弾ゴム、無線の一部。合わせて三百に少し足りない。詰められる上限。それでも千。少年は、その表を見ていない。少年は、龍を見ていた。倉持はかつて、自分もそう見た日があったかを思い出そうとして、思い出せなかった。
何か言え、と倉持は思った。だが言わなかった。少年の口が動いた。曹長、と言いかけて、止まった。次の言葉が、出てこないらしかった。行ってらっしゃいでもなく、ご武運でもなく。少年はそのどれも言えず、ただ晒布を握り直した。指の節が白かった。目の縁が光った。倉持は顔をそむけ、点火栓の箱に手を伸ばした。泣くな、とは言わなかった。泣けとも言わなかった。彼は少年に、次の缶を濾せ、とだけ言った。少年は袖で顔をこすり、缶に向かった。手だけは、動いた。手先の器用な子だった。それだけは、この基地で唯一、狂わない数字だった。手が動くうちは、まだ持つ。
夜が薄くなった。掩体の口から、藍が退き、鼠色が入ってきた。倉持は最後の螺子を締め、カウリングを戻した。作業灯を消した。機体は闇に沈み、輪郭だけが残った。彼は増加試験を回さなかった。回せば、点火栓がまた汚れる。一度きりの火を、地上で使うわけにはいかなかった。彼は左発動機の前に立ち、掌をカウリングに置いた。金属は冷たく、朝露で湿っていた。掌に、その冷たさがゆっくり移ってきた。指の下で、鋲の頭が並んでいるのがわかった。三十一本。彼はそれを数えなかった。数えなくても、そこにあることを知っていた。知っている、ということが、彼の仕事だった。
倉持は掌を離さなかった。上昇限度八千四百。差千三百。詰められる三百。残る千。数字は、彼の頭の中で動かなかった。動かない数字を、彼は二十年信じてきた。だが浅間は、差の分はこちらが上げる、と言った。数字にならない一つを。倉持は、それを軽蔑してきた。祈りを、願いを、気概という名の空白を。今も軽蔑していた。していたはずだった。それなのに、掌はまだ離れなかった。
掌の下で、機体は黙っていた。整備は終わっていた。飛べる限界まで、彼は整えた。ここから先は、彼の手の届かない高さの話だった。倉持は空を見た。九州の山あいの、白みはじめた空を。九千七百の高さは、まだ見えなかった。どこにも、線はなかった。予熱まで、あと一時間。彼は掌を置いたまま、東の稜線が明るむのを待った。
第7章 八月十五日
東の稜線が、白から金に変わった。〇四三〇。予熱は終わっていた。潤滑油は缶ごと焚火で温め、二基のハ一〇二に注ぎ直してあった。油温は規定の下限に届いた。下限であって、それ以上ではなかった。あとは点火栓に火を入れるだけだった。倉持は、その火をまだ入れていなかった。一度きりの火だった。始動すれば、缶で温めた油の熱は使い果たされる。地上で使うわけにはいかなかった。彼は火を、手のうちに握ったまま、稜線の金を見ていた。
浅間はすでに座席にいた。風防越しに、右頬の傷が黒く見えた。飛行帽の紐は、まだ結ばれていなかった。徳田は輪止めの縄を握り、倉持の合図を待っていた。少年の指の関節が、縄の上で白くなっていた。倉持は右手を挙げかけた。掌の高さは、肩のあたりで止まった。
指揮所から、伝令が走ってきた。足音が、白みはじめた飛行場に大きく響いた。硬い、乾いた足音だった。倉持は時計を見た。〇四三八。敵情ではない、と思った。敵情の報せは、こういう足音では来ない。敵情には諸元がある。足音には、それがなかった。
「発進、見合わせ」伝令は息を切らして言った。肩で息をしていた。「正午、重大放送。全機、待機」
倉持は復唱しなかった。命令の体を成していなかった。重大放送、という言葉には諸元がなかった。高度もない、機数もない。方位もない。時刻だけがあった。正午。彼はそれを、ひとつの数字として受け取った。数字のほかに、受け取れるものがなかった。
浅間が座席から降りてきた。翼の上を、片手で機体を支えながら伝ってきた。何も言わなかった。倉持も言わなかった。徳田は縄を握ったまま、二人を見ていた。倉持は挙げかけた手を下ろした。ゆっくりと、途中で止めるように下ろした。合図は、要らなくなった。
機体は動かなかった。始動していないのだから、止まっている、という言い方も正しくなかった。屠龍は掩体の中で、輪止めをかけたまま、ただそこにあった。八千四百まで上がるはずの機械が、地面に載っていた。二本のプロペラは、朝の光の角度で止まっていた。倉持は工具を片づけなかった。出撃は取り消されていない。見合わせ、と言われただけだった。彼は手順の中にいた。手順の外のことは、考えないことにしていた。考えても、諸元が出てこなかった。
日が高くなった。その朝、飛行場にB29は来なかった。警報も鳴らなかった。九千七百の高さは、どこにも現れなかった。空は、ただ晴れていた。倉持は詰められる三百と、残る千を、頭の中で並べた。何度並べても、数字は動かなかった。今日も動かないのだろう、と思った。
徳田が松根油の缶を運んできた。もう濾さなくていい、とは倉持は言わなかった。少年に缶を濾させた。布を張り、缶を傾けさせた。手が動くうちは持つ。それだけだった。少年の手は、今日も狂わなかった。傾ける角度も、待つ間も、いつもと同じだった。
正午が近づいた。整備員も搭乗員も、指揮所の前に集められた。誰も、なぜ集まるのかを口にしなかった。卓の上に受信機が一台あった。山あいは電波の通りが悪く、雑音が多かった。誰かが空中線を張り直した。竿の先を、少し高くした。時報が鳴り、それから、声が流れた。
声は遠かった。雑音に切れ、言葉の半分は聞き取れなかった。堪ヘ難キヲ堪ヘ、という一節だけが、雑音の間から立ち上がった。倉持はその古い言い回しを知っていた。意味は、すぐには結ばなかった。言葉は耳に入り、そこで止まった。放送は短かった。終わると、また雑音だけが残った。誰かが受信機の音を、絞った。
誰も動かなかった。将校の一人が受信機の前に立ち、それから帽子を取った。ゆっくりと、両手で取った。徳田が倉持の袖をつかんだ。曹長、と少年は言った。あとが続かなかった。もう一度、曹長、と言った。それだけだった。倉持は少年を見なかった。彼は屠龍の方を見ていた。掩体の暗がりの中の、動かない機体を見ていた。
数字が、頭の中で止まった。千三百の差。詰められる三百。残る千。その千を、もう誰も体で埋めなくてよかった。浅間は九千七百まで上がらなくてよかった。上がれない機械は、上がれないままでよかった。二十年、倉持は動かない数字を信じてきた。数字は嘘をつかない、と信じてきた。今日、その数字が、初めて意味を失った。埋めなくてよい差、というものが、この世にあった。それは彼の計算の外にあった。祈りの側にあった。彼が軽蔑してきた、あの空白の側に。数字ではないものの側に。
午後、武装解除の命令が来た。だが屠龍から下ろすものは、もう残っていなかった。二〇ミリ斜め銃は、体当たりの改造のときに座から外してある。斜め銃は、屠龍が上を向いて撃つための銃だった。敵の腹の下から、斜めに撃ち上げるための銃だった。上に、もう撃つものはなかった。二挺は、あの日から掩体の隅に並べたままだった。装甲板も、防弾ゴムも、とうに剥がしてあった。無線は、初めからほとんど積んでいなかった。軽くするために削ぎ落とした重さが、今はもう、何のための軽さでもなかった。軽くしても、上がる先がなかった。
倉持は掩体の外へ出て、屠龍を見上げた。武装を外された機体は、細く、長く、痩せて見えた。徳田がかつて龍と呼んだものは、牙を抜かれ、ただの双発機になっていた。カウリングの下で、点火栓はまだ乾いていた。一度きりの火は、とうとう入らなかった。缶で温めた油は、もう冷めていた。八千四百も、九千七百も、もう要らない数字だった。倉持は空を見た。九州の山あいの、よく晴れた昼の空を。線は、どこにもなかった。初めから、なかったのかもしれなかった。彼が引いていただけの線だったのかもしれなかった。
倉持は工具箱の蓋を開けた。手にしたままだった片口スパナを、布で拭い、元の窪みに戻した。窪みの形と、スパナの形は、合っていた。三十一本の鋲は、まだそこにあった。数えなくても、あることを知っていた。知っている、ということが、彼の仕事だった。二十年、そうやって知ってきた。その仕事も、今日で終わりだった。
彼は蓋を閉じ、留め金をかけた。留め金は、いつもの音を立てた。それから、傍らの少年に言った。
「帰れ。村へ帰れ」
徳田は動かなかった。倉持はもう一度、同じことを言わなかった。少年の手を見た。松根油で黒く汚れた、痩せた手だった。器用な、狂わない手だった。缶を濾し、鋲を数え、縄を握った手だった。その手は、もう何も運ばなくてよかった。倉持は工具箱を提げ、掩体に背を向けた。うしろで、屠龍は動かなかった。上がるはずだった高さへ、二度と上がらぬまま、朝露の乾いた地面に、ただ載っていた。