第1章 秤
防壁が落ちたのは、暦の上では晩秋の十七日、時刻でいえば夜明け前の、篝火の油が切れかける頃合いだった。オルグはその崩落を音でなく重量で受け取った。石が石を打つ響きは、彼の帳簿のどこにも記録欄を持たない。地を伝ってきた震えが、天幕の支柱を細かく鳴らし、机上の墨壺の水面に一瞬だけ皺を寄せた。彼はその皺が凪ぐのを待ってから筆を戻した。記録できるのは、崩れた区画に置いていた乾草の四十荷と、塩袋の十二、そして下敷きになった人員の頭数だけである。頭数は、まだ確定していなかった。確定しないものを、彼は仮の欄に置いて線を引かずにおいた。
点呼は夜が白むのを待って行われた。生き残りの列は、二列縦隊の見本のようには並ばなかった。並ぶ体力がなかったからだ。肩を貸し合い、槍を杖にし、あるいは膝をついたまま名を呼ばれるのを待つ者もいた。オルグは列の端から数え、途中で二度、数え直した。息の白さが列の上にまばらに立ちのぼり、その数が人の数より少ないように見えて、彼は目を細めた。名簿上の八百三十一に対し、応じた声は五百と少し。掠れた「応」の声が、風下では聞き取れず、彼は聞こえたぶんだけを信じた。差の三百は、燃料でも積荷でもなく、ただ引き算の結果として残った。彼は差を紙に書いた。書くと、それは重さを失って、ただの数字になった。都合のいい性質だ、と彼は思った。都合がよすぎる、とも思ったが、そちらは書かなかった。
残った物資を、彼は単位で数えた。感傷は換算表を持たないが、物資は持つ。数えられるものだけを数える、というのが、生き延びるための最初の作法だった。
乾草、二百二十荷。一荷は六十斤、馬一頭の三日分。塩、九袋、これは全軍の五日分にわずかに足りない。乾肉は数えるのも惜しいほどで、実質、竜の一食に届かない。水は峠に泉があるという話だったが、話は積載量を持たない。誰かの記憶と、誰かの伝聞と、それを確かめに行く余力の不在――そのどれもが、樽の底には一滴も溜まらない。オルグは指を折らなかった。指では桁が足りないからだ。折るかわりに、彼は数字を紙の上で二度なぞった。
問題は、馬匹だった。輓馬は当初六十四頭、いまは四十一頭。二十三頭の差は、夜のうちに倒れたか、あるいは倒れる前に食われた。飢えた戦竜は、輓馬と敵兵の肉を、味の上では区別しない。フェレがそれを止めていなければ、差はもっと開いていただろう。竜番の少女は、竜の腹を勘定するのが仕事で、オルグは竜を含めた全体の腹を勘定するのが仕事だった。二人の帳簿は、同じ胃袋を別の欄に書いている。同じ数を、彼女は「養う口」として、彼は「減らす荷」として書く。どちらも間違ってはいなかった。
撤退命令は、正午前に来た。泥のはねた伝令が馬から転げるように降り、封を切る前から手が震えていた。一本の峠道を、五日で越えて後方の補給線へ合流せよ、という内容だった。命令書には行軍速度の指定があった。日に三里。オルグはその数字を読んで、しばらく黙った。紙を持つ指の腹で、乾いた文字の凹凸を確かめるように撫でた。
「無理だ」と、彼は誰にでもなく言った。
積載量が足りない。四十一頭の輓馬で運べるのは、傷病者と、最低限の糧食と、それだけだ。武具を捨て、天幕を捨て、鍋を捨てて、ようやく数字が釣り合う。釣り合ったところで、日に三里は出ない。傷病者を乗せた車は、坂で速度を半分にする。半分になれば、五日は十日になり、十日ぶんの糧食はここにない。彼は同じ勘定を、順序を変えて三度たどった。始点をどこに置いても、終点は動かなかった。引き算は、どこで区切っても赤字で終わった。
ヴォーが天幕に入ってきたのは、その赤字を三度たしかめた後だった。殿を任された竜騎士は、埃で灰色になった顔で、まず竜の話をした。垂れ幕を払う手つきに、疲労より苛立ちが勝っていた。
「竜を飛ばす。空からなら、峠の出口を扼している敵の目を焼ける。そうすれば道が開く」
「一頭飛ばすのに、何がいる」オルグは筆を置かずに訊いた。顔も上げなかった。
「知らん。それは貴官の欄だろう」
その通りだった。オルグは自分の欄を開いた。頁をめくる音が、天幕の中でやけに大きく響いた。戦竜を一頭、一刻ほど飛ばすには、乾肉に換算して二百斤、体温を保つための塩と、離陸前の休息が要る。二百斤の肉は、いまこの軍にない。作るには、輓馬を屠るしかない。輓馬を屠れば、運搬力が落ちる。落ちた運搬力ぶん、傷病者が歩けぬまま道端に残る。
オルグは筆でその連鎖をたどり、末尾に数字を置いた。竜一頭の一飛び――肉二百斤は、輓馬四頭ぶん。輓馬四頭は、傷病者およそ三十人の脚である。三十人の脚は、五日後の三十の頭数だった。矢印を一本引くたびに、生きているものが数に変わっていく手応えがあった。
彼はその数字を、しばらく見た。竜の一荷が、はっきりと、命の重さで秤に載っていた。片方の皿に竜、もう片方に三十人。秤の梁は、竜のほうへ傾いだ。傾いだのは、竜が重いからではない。道が開かなければ、残る五百も、いずれ同じ欄に書き込まれるからだ。三十を惜しんで五百を失う――その形だけは、実務が決して選ばない形だった。多いほうを生かす。実務は、いつもそう答える。答えたあとで、何も言わなくなる。
フェレが天幕の外で、竜に何か低く話しかけているのが聞こえた。宥めるような、餌を約束するような声だった。単語は聞き取れず、抑揚だけが布越しに届いた。約束できる餌は、まだ帳簿のどこにもない。彼女はそれを知らずに約束しているのか、知っていて約束しているのか、オルグには判じかねた。
オルグは秤を見つめたまま、指先で梁の傾きを、ほんの少し、押し戻したい衝動を覚えた。押し戻す理由は数字にない。理由は、名簿の三百人の差の、そのさらに端に、一つだけ、彼が消し忘れている名前があるからだった。墨で潰しそこねた、たった二文字。見るたびに目が先にそこへ行き、そのたびに彼は別の行へ視線を逃した。
彼はその衝動を記録しなかった。記録欄がないからではない。書けば、秤が狂うと知っていたからだ。数字は、書いた者の手の温度を吸う。吸わせないことが、彼の職分だった。
ヴォーが答えを待っていた。天幕の入口で、腕を組んだまま身じろぎもせずに。オルグは筆を取り、命令書の余白に、最初の一行を書いた。屠る輓馬の頭数だった。
第2章 飼葉

竜の体温は、指では測れない。オルグは竜の脇腹、前肢の付け根の窪みに掌を押し当てて、そこで数える手立てを持たなかったから、代わりにフェレの言う数字を書き取った。掌に伝わってくるのは温度ではなく、ただ、大きなものが息をしているという事実だけだった。三十九度と二分、と少女は言った。数字は、少女の口から出てはじめて、オルグにとっての温度になった。平時の竜の平熱を、オルグは帳簿の欄外に控えていた――四十一度前後。二度近く、下がっていた。
彼はそれを、燃料の目減りとして受け取った。感傷ではなく、収支として。
「昨日は」
「四十度ちょうど」フェレは竜の鼻面に頬を寄せたまま答えた。目は竜の閉じた瞼を見ていて、オルグのほうを向かなかった。「一日で八分、落ちてる」
一日八分。単純に外挿すれば、あと数日で竜は炉の火が落ちるように冷えていく。もっとも、生き物の冷えは直線を描かない。ある一線を割った途端に、傾きは崖になる。オルグはその崖の位置を知らなかったし、知る手段もなかった。知らないものは、勘定に入れない。入れないが、忘れもしない。忘れないことと、数えることは、彼の中で別の抽斗に仕舞われていた。
竜は横腹を地につけ、翼を畳んでいた。畳んだ翼の骨の稜が、天幕の薄明かりの下で、以前より一段はっきりと浮いて見えた。皮の下の肉が、そのぶん減った証だった。飛べる竜と、飛べぬ竜の差は、この稜の高さに出る。オルグは目分量で、あと一度の飛行分、と見積もった。二度目は保証しない。見積もりというより、それは値切りに近かった。生き物の側は、こちらの値切りに付き合ってはくれない。
「熱をもう一度戻すのに、どれだけ要る」オルグは訊いた。
フェレは少し黙った。竜番の沈黙は、たいてい、答えが数字で出ないことの合図だった。オルグはその沈黙を、答えが出るまで待った。急かせば、出ない数字が、噓の数字になって出てくる。
「乾肉を、太腿の骨ごと。三十斤。血の残ってるやつ」
「血の残ってるやつは、傷病者の粥に回している」
「知ってる」
知っていて言う。それがこの少女のやり方だった。無知から欲しがるのではなく、相手の帳簿を読んだ上で、それでも掌を出す。オルグは帳簿を開いた。開くまでもなく、数字は頭の中で並んでいた。乾肉は残り僅少、塩は九袋を五百人で割れば一人一日ひとつまみ、飼葉二百二十荷は輓馬四十一頭が五日で食い尽くす量にわずかに足りない。竜に三十斤を回すとは、その足りない皿から、さらに掬うことだった。掬った先で、粥が薄くなる。薄くなった粥で、傷病者の熱が下がる。竜の熱と、人の熱を、同じ秤に載せる作業だった。目盛りは同じ。載せるものが違うだけだ。違うものを同じ目盛りで量ることに、彼はもう慣れていた。慣れることが、この仕事だった。
「回せない」オルグは言った。
断定は短くする。長く言えば、言い訳になる。言い訳は、聞くほうに選択の余地があると錯覚させる。余地はなかった。余地のない断定を、余地のあるふりで包むのは、相手への侮辱だと彼は思っていた。
「あなたは」フェレは初めて竜から顔を上げた。「この子を、飛ばすつもりでしょう。峠の出口の敵を、この子に片づけさせるつもり」
「軍がそう決めた」
「軍じゃない。あなたが計算したから決まった」
その通りだった。オルグは訂正しなかった。訂正は、責任の所在を薄めるためにしか使えない語法で、彼はそれを好まなかった。自分の引いた線は、自分の名で引いたものだ。名を隠すために言葉を足すことを、彼は帳簿の外でもしなかった。
「飛ばすなら、燃やす分の薪をくべなきゃ、飛ばない」少女の声は高くならなかった。竜を宥めるときの、低いままの抑揚だった。人を説くのと獣を宥めるのとを、この少女は同じ声でやる。「三十斤惜しんで飛ばして、途中で落ちたら、あなたの計算は、竜一頭と、乗ってる竜騎士と、あけるはずだった道を、全部いっぺんに失う。そっちのほうが、高くつく」
それは数字の反論だった。オルグは、数字でなら受けて立てた。落下の確率を、彼は帳簿の裏で概算した。三十斤をくべた場合の飛行成功と、くべぬ場合の成功の差。差は、確かにあった。あったが、傷病者三十人の粥を割るほどの差か――そこが、彼の計算では詰めきれなかった。詰めきれないところに、フェレは次の一言を置いた。置き方が、狙っていた。相手の勘定が止まる一拍を、少女は待っていた。
「それに」と少女は言い、そこで、数字をやめた。「この子は、あなたの帳簿を読めない。腹が減ってることしか、わからない。飛べって言われたら、飛ぼうとする。無理でも、飛ぼうとする。この子はそういうふうにできてる。――それを利用するなら、せめて、飛べる腹にしてやってから利用しなさいよ」
オルグは筆を止めた。
利用する、という語を、彼は日頃、自分に禁じていなかった。輓馬を屠るのも、傷病者の粥を薄めるのも、竜を飛ばすのも、すべて多いほうを生かすための利用だった。利用に善悪はない。効率があるだけだ――そう帳簿に教わってきた。少女は、その効率の内側に、帳簿が数えない一項を差し込んできた。飛ぼうとして飛べぬまま死ぬ竜の、その無駄になる意志の重さ。秤に載る単位ではなかった。載らないものを、彼女は指さしていた。指さされて初めて、そこに何かがあることを、オルグは認めた。
彼は帳簿を見た。乾肉の欄。三十斤。その隣の、傷病者の欄。二つの数字の間で、梁は、動かないはずだった。動かす理由が、数字にはなかった。数字にない理由で梁を動かすことを、彼はこれまで一度もしていなかった。
オルグは、竜の脇腹の、稜の浮いた翼の骨を、もう一度見た。あと一度、飛べる。二度目は保証しない。その見積もりに、少女の言葉を一つ足した。飛べる腹にしてやってから。足したところで、秤の目盛りは変わらない。変わらないのに、彼の手は、さっきと同じ位置に留まらなかった。
彼は筆を取り、乾肉の欄に、十五斤、と書いた。三十ではなく。傷病者の粥から、その半分を、竜へ移す線を引いた。半分にした理由は、数字にない。半分なら秤がまだ持つと、自分に言い聞かせただけだった。持たないことを、彼は知っていた。知っていて書いた。それは、少女が知っていて掌を出したのと、同じ形の嘘だった。
書いたあとで、指先が、墨の乾かぬその行の上で、わずかに止まった。名簿の、消し忘れた二文字の上で止まるときと、同じ止まり方だった。彼はその一致を、記録しなかった。記録しないことで、なかったことにできる種類のものではない、とも思わなかった。ただ、止まり、そして、指を離した。
フェレは十五斤の線を見て、何も言わなかった。礼も、抗議もしなかった。ただ竜の鼻面に手を戻し、また低い声で、何か約束した。今度は、単語が一つだけ聞き取れた。「泉」と、少女は言った。
オルグは顔を上げた。峠の泉。伝聞でしか存在しない水場を、少女は竜に約束していた。誰が、その水があると、彼女に告げたのか。
第3章 峠
追撃部隊の速度を、オルグは敵の食い方から逆算した。
崩れた壁の向こうに構えていたのは、竜を持たぬ軽装の別働隊だった。輓馬を曳かず、荷を負わず、兵一人が三日分の乾糧を腰に下げて動く型。その型は速い。荷駄を捨てた軍は、常に荷駄を曳く軍より速い。これは勇気の問題ではなく、積載の問題だった。荷を持たぬ者が、荷を持つ者に追いつくのは、算術の必然であって、武勲ではない。武勲というものは、算術が尽きた後に人が付け足す装飾であり、装飾は重さを持たないから、オルグの帳簿には載らなかった。載らないものを、彼はいつも一度だけ眺めて、次の欄へ送る。眺める癖だけは、どれだけ削っても残った。
彼は峠道の勾配と、前夜の斥候が持ち帰った松明の数から、敵の縦隊長を四百と見積もり、日七里、と紙の端に書いた。松明の数は嘘をつかない。人は炊く火の数を偽れても、夜道を照らす火の数だけは、歩く足の数に縛られる。こちらは日三里が命令で、実測は二里半。差は一日あたり四里半。二日で九里。峠の頂までの残り、十一里。指が算盤を弾くまでもなく、桁は勝手に繰り上がっていく。繰り上がる音を、彼は耳の奥で聞く気がした。数は、急かされると音を立てる。
二日半で、追いつかれる。
計算は感傷を挟まない。挟む余地がないのがこの数字の取り柄で、そこが救いでもあった。悲しみは数を狂わせる。恐れは桁を膨らませる。だが四里半という数字は、誰が泣いても四里半のままだった。泣いても、祈っても、名を呼んでも、四里半は身じろぎひとつしない。彼はその不動を、信じるというより、頼りにしていた。頼るという語のほうが、彼の手には馴染んだ。
殿のヴォーは、その紙を覗き込んで、鼻で笑った。汗と土の匂いが、紙の上にまで届いた。籠手の縁から乾いた血が一筋、爪の付け根まで走っているのを、オルグは横目で数に入れた。
「数えるな。減らせ」
「何を」
「敵をだ」
オルグは筆を止めなかった。穂先が紙をこする、乾いた音だけが二人の間にあった。ヴォーの秤には、敵の数を減らす目盛りがあった。オルグの秤には、その目盛りがない。あるのは重量と時間と、両者を交換する為替の相場だけだった。竜一飛行は乾肉二百斤に等しく、乾肉二百斤は傷病者三十名の命に等しい。ヴォーの前でその換算表を開いたところで、彼が読むのは末尾の数ではなく、最初の一語――勇。同じ紙を見て、二人はいつも違う語を読んだ。読む場所が違えば、同じ墨が別の意味に濡れる。
「竜はあと一飛行だ」オルグは言った。「体温は三十九度二分。平熱まで一度八分足りない。二度目を私は保証しない」
「保証はいらん。一度で足りる」
「足りるかどうかは、私の欄外だ」
ヴォーは何か言いかけて、やめた。喉の奥で言葉が一度ふくらみ、そのまま萎んだ。誇りと現実の重量差というものがあって、その差は、口を開くたびに少しずつ本人の背にかかる。彼はまだ立っていた。膝は笑っていたが、立っていた。踵は地を噛み、爪先はわずかに震え、それでも背骨だけが真っ直ぐだった。立っていられる荷の量には、上限がある。オルグはその上限を、帳簿の癖で見積もってしまい、見積もったことを後悔した。他人の背の目方まで数えるのは、輜重監の職掌を越える。越えた分だけ、彼は今夜、余計に眠れなくなる。眠れぬ夜の数もまた、どこにも載らない欄だった。
荷を捨てる決断は、峠の三合目でした。
勾配が一気に立ち、輓馬三十七頭のうち六頭が、蹄鉄の摩耗と飼葉の欠乏で、荷を曳く速度を割った。馬は泣かない。ただ、脚を止める。首を垂れ、鼻面から白い息を落とし、それきり前へ出ない。オルグは乾草二百二十荷のうち、六荷を道の脇へ落とさせた。荷は勾配を転がり、藁の匂いを撒きながら谷へ消えた。飼葉六荷は、輓馬六頭の三日分。捨てれば六頭は明日には使えなくなり、明日使えぬ馬は今日のうちに屠って乾肉にするのが帳簿の正解だった。正解を、彼は半分だけ実行した。四頭を潰し、二頭を、理由なく残した。刃を入れる兵の手が、四頭目で一度だけ震えたのを、彼は見て、見なかったことにした。見たと書けば、震えも一荷になる。だから書かなかった。
残した二頭に、名はない。馬に名はつけない規則だった。つけると、秤が狂う。名のあるものは、重さの他に何かを持ち始める。その何かを、帳簿は勘定できない。勘定できないものを積めば、いつか桁のどこかが合わなくなる。
点呼に穴があった。
三合目の点呼で、生存者は五百余のはずが、五百に三名足りなかった。声が三つ、闇の中で返ってこなかった。落伍か、離脱か、あるいは最初から名簿の数が誤っていたか。オルグは三通りの可能性に等しく重みを置き、そして名簿の、消し忘れた二文字の上で、また指を止めた。爪の先が、その二画をなぞりかけて、止まった。三名の穴と、二文字の名。数が合わないのは、どちらも同じだった。合わせようとすれば、嘘をひとつ書き足すことになる。彼は書き足さなかった。穴を穴のまま、次の欄へ送った。埋めない穴だけが、正直だった。正直な帳簿は、いつも少しだけ醜い。
「三名は」フェレが訊いた。竜の口輪を締め直しながら。革の擦れる音がした。
「勘定に入れない」
「死んだの」
「入れない、と言った」
少女はそれ以上訊かなかった。訊かないことで、答えを聞いたのと同じにする種類の沈黙だった。彼女はその沈黙を、竜の首筋に移した。掌が、鱗の熱を確かめるように滑る。指の腹が一枚一枚の縁をたどり、そこで一度、止まる。竜の体温は、朝より二分下がっていた。三十九度。約束した泉は、まだ道の先にあり、道の先は、まだ伝聞の中にしかなかった。誰も見た者のいない水を、彼らは飲む予定だった。飲めると信じることだけが、いまは唯一の兵糧だった。
峠道で時間を買う代償を、ヴォーが先に払いに行った。
殿の竜騎士が、竜も持たずに殿を務めるという矛盾を、彼は誇りで埋めるつもりだった。狭隘部で、一人が数刻を稼ぐ。稼いだ数刻は、本隊の距離に換算できる。二里半の速度で、数刻は一里に満たない。一里に満たぬ距離のために、竜騎士一名。オルグは何度も同じ割り算をやり直したが、答えはいつも同じ側に落ちた。分母を変えても、分子を撫でても、落ちる先は動かない。
オルグは、その交換の相場を、正しいとも、間違っているとも書かなかった。ただ、乾肉の欄でも傷病者の欄でもない、どこにも属さない一名を、どの列に立てればいいのか、彼の帳簿には様式がなかった。様式のないものを、彼は数えられない。数えられないものを前にすると、輜重監はただの、字の書ける男に戻った。字の書ける男には、算術の逃げ場がない。
「兵站監」ヴォーが振り返らずに言った。背だけが、こちらを向いていた。「俺の分の糧は、他へ回せ」
回す、とオルグは答えなかった。喉まで来た返事を、彼は飲み込んだ。回す先を、もう計算し始めていた。それが答えだった。始めた計算の途中で、彼の筆は、ヴォーの名の二画目で、また止まった。名簿の消し忘れた二文字と、同じ止まり方で。穂先の先で、墨が一滴、名の上にふくらんで、落ちるのを、彼は止めなかった。落ちた墨は、誰の欄にも属さぬまま、紙の目にゆっくりと沁みていった。
第4章 最後の一荷
峠の頂は、地図の上では一点だった。実際には、風が二方向から吹き上げる、幅十歩ばかりの鞍部にすぎなかった。左の谷から吹く風は冷たく乾き、右の谷から吹く風は湿って重かった。二つの風は頂のちょうど真上でぶつかり、渦を巻いて、雪の粒を横ざまに走らせた。オルグはそこで、外套の襟を立てもせず、最後の積載を確定させた。
竜の体温は、明け方にさらに一分下がり、三十八度に届こうとしていた。平熱四十一度との差は三度。フェレによれば、体温が一度落ちるごとに、翼が持ち上げる重さは二割ずつ減る。三度で六割。平熱なら二里を二十貫運んだ翼が、いまは一里半を八貫。八貫は、荷にすれば乾草一荷の半分にも満たなかった。人にすれば、痩せた者ひとり、あるいは大人なら片腕を落としてようやく、という重さだった。オルグは、その数字を、幾度も帳簿の余白に書いては消した。書いても消しても、八貫は八貫のままだった。
一飛行。片道。それが在庫のすべてだった。
オルグは帳簿を開き、八貫の枠に何を積むかを勘定した。武具を積めば、峠の向こうで一人が戦える。糧を積めば、向こうで数人が二日生きる。命令書を積めば、後方の駐屯地が、五百余名の生存を二日早く知る。二日は、迎えの算段に換算できた。どれも正しかった。どれも、八貫の使い道として、帳簿に様式のある使い道だった。様式のあるものだけが、あとで問われたとき、指をさして示せる。彼は、示せるものを積むのが自分の職分だと、長く信じてきた。
「兵站監」フェレが竜の首の下から言った。「あの子、もう一回しか飛べない」
「知っている」
「知ってて、荷を積むの」
「荷も人も、秤の上では同じ重さだ」オルグは筆を止めなかった。「秤は、名前を読まない」
少女は、しばらく黙った。それから、竜の顎の下を、ゆっくりと撫でた。
点呼で穴のままだった三名のうち、一名が、明け方の斜面を這って戻ってきた。戻ってきた、という言葉は正確ではなかった。二名が一名を担いで登り、担いだ二名は頂の手前で息を止め、担がれていた一名だけが、雪の上を肘で進んでいた。肘は、進むたびに雪を掻き、掻いた跡に、赤い筋を一本ずつ残した。三名の行方は、これで埋まった。埋め方は、帳簿の望む埋め方ではなかった。
男の名は、名簿の上で、二文字だった。オルグが消し忘れた、あの二文字だった。消し忘れたのではない、と彼はいまになって思った。消せなかったのだ。あの夜、二画目で筆が止まったのは、腕が、まだこの男を生者の列に置きたがっていたからだった。腕は、帳簿より先に答えを知っていた。ただ、その答えに様式がなかった。様式のない答えは、帳簿のどこにも書く場所がなく、書けないものは、彼にとって、長いあいだ、存在しないのと同じだった。
両脚は潰れ、失血で、体はすでに軽かった。オルグは、男のかたわらに膝をつき、目分量で量った。七貫、あるいはそれ以下。八貫の枠に、ちょうど収まる重さだった。収まってしまう、というのが、たちの悪い偶然だった。偶然は、算術の顔をして、彼に選択を迫った。
オルグは、この一名を八貫の枠に書き込まなかった。書き込めば、比較が始まる。武具と、糧と、命令書と、両脚の潰れた一名とを、同じ秤に載せる比較が。その比較の答えを、彼はもう知っていた。知っていたから、書かなかった。書かないことは、逃げに似ていた。だが、逃げることでしか守れないものが、この朝には、ひとつだけあった。彼は帳簿の該当欄を、静かに閉じた。閉じることで、ひとつの計算が、帳簿から外れて落ちた。落ちた先には、列がなかった。
「積むもの、決まった?」フェレが訊いた。
「決まった」
「なに」
オルグは、閉じた帳簿の背に、片手を置いた。
「様式のないものだ」やがて彼は言った。「お前が、竜に方角を教えてやれ」
フェレは男を竜の胴に縛りつけた。革帯を二本、締める手つきに、迷いはなかった。少女は武勲を縛っているのではなく、荷を固定していた。それでよかった。荷は落とさぬように積む。それだけが、この場で唯一、正しさの分かっている作業だった。締め終えると、フェレは帯の結び目を二度、掌で叩いて確かめた。
「泉のほう?」フェレが訊いた。
「お前が約束した水だ。誰も見ていない」
「あの子は、匂いで行ける」フェレは竜の鼻面に額を寄せた。「水は、信じれば匂う」
オルグは、それを算術で否定できなかった。峠の向こうの泉は、伝聞のなかにしかなく、情報源はいまも不明のままだった。だが、飲めると信じることだけが唯一の兵糧だ、と彼は昨夜、自分で書いた。書いた以上、その一行の重さは、彼の帳簿でも八貫に釣り合った。竜は、実在しない水の匂いへ、実在する一名を運んでゆくことになる。届けば、両方が生きる。届かなければ、両方が、遠い斜面で、彼の帳簿の外で死ぬ。どちらに転んでも、この飛行のあと、秤に載るものは何も残らなかった。彼は、その空白を、あらかじめ胸のうちで量ってみた。空白には、重さがなかった。
竜が、翼を二度、試すように開いた。三十八度の胴から、湯気とも呼べぬ薄い熱が立ち、風にすぐ奪われた。比喩ではなく、それは失われてゆく体温そのものだった。フェレが短く鳴らした。合図は、命令ではなかった。頼み事の口調をしていた。竜は、その声に応えるように首を伸ばし、痩せた翼で風の柱を掴み、鞍部を蹴った。八貫を抱えて、稜線をひとつ、越えた。越えると、あとは見えなくなった。見えなくなることが、この飛行の目的だった。
男の名を、オルグは声に出さなかった。ただ、名簿の二文字を、今度は消さなかった。消さないことが、この撤退で、彼が唯一、帳簿に足した項目だった。増えた一行は、生者の列にあった。理由の欄は、空のままにしておいた。空のままにしておくことにも、彼は、はじめて耐えられた。
秤が、空になった。
輜重監の仕事は、載っているものを数えることだった。載っていないものを、彼は数えられない。追撃は、あと一日半で狭隘部に届く。ヴォーが稼ぐ数刻は、まだ一里に満たない。本隊は、日三里で峠を下りはじめていた。割り当てるべき糧は、もう割り当て終えていた。分けるべき馬も、屠り終えていた。彼の帳簿に、次に書き込む項目は、なかった。筆は、乾きはじめていた。
オルグは、空の秤の前に立っていた。皿は水平で、目盛りは零を指し、その零だけが、正しかった。正しさに、ぬくもりはなかった。彼は、風下へ顔を向けた。竜の消えた稜線の向こうから、水の匂いは、まだ、届かなかった。ただ、雪を含んだ風が、頬を撫でて過ぎるだけだった。
届かないことを、彼は数えなかった。数えられないものを前にすると、輜重監は、また、字の書ける男に戻った。字の書ける男は、空の皿に、そっと片手を載せた。手の重さで、皿が、わずかに傾いた。目盛りが、零から、ひと目盛りだけ動いた。
それが、この撤退で、彼が最後に量った重さだった。